目次
- 日本アルプスと氷河
- 日本アルプス
- 氷河によって作られた地形
- 日本アルプスに氷河はいつあったのか?
- 氷期の川と地形形成
- 氷期の植生
- 氷期の日本は今より乾燥していた
日本アルプスと氷河
日本アルプス
日本アルプスは飛騨山脈、木曽山脈、赤石山脈と呼ばれる山々です。それぞれを北アルプス、中央アルプス、南アルプスと呼びます。日本で3000メートルを超える山は富士山と木曽御嶽を除いてすべて日本アルプスに含まれています。日本で2番目に高い山は、赤石山脈にある北竹です。その他にも間ノ岳や奥穂高岳など日本アルプスには3000メートル級の山々が集まっています。日本アルプスは高山の景観が見られます。その美しい景観のため上高地などの観光地にもなっています。
氷河によって作られた地形
日本アルプスには険しい山や谷がおおいなか、北穂高岳と奥穂高岳の間に比較的緩やかにくぼんだ地形があります。それを涸沢カールと呼ばれている谷です。日本アルプスの険しい山や谷の中涸沢カールや槍沢の丸い形の谷は、まわりの谷とは異なる作用で出来たことが明らかです。普通の川は、谷を下へと削っていくので、断面がアルファベットのV字型の谷を作ります。槍ヶ岳山頂の直下まで続く谷槍沢では、夏の早い時期には窪みに雪が残っています。かつては、この谷に一年中多量の雪が溶けずに積もっていました。雪は圧縮されて氷となり、その氷が少しずつ谷を下り、氷河を形成しました。丸い谷は氷河によって削られたのです。氷河によって削られた丸い谷のことをカールと言います。また、氷河に含まれていた岩のかけらが集まって土手のようにでっぱった地形をモレーンと呼びます。一般に川の水で流された土砂は、少し角が取れて丸くなっていたり、水の働きで大きさがそろったりしています。一方モレーンでは、氷河がベルトコンベアのように土砂を運んできて作られたため、角張った岩のかけらや砂や泥がごちゃ混ぜの状態で溜まっています。
日本アルプスに氷河はいつあったのか?
日本アルプスの2700~2800メートルより高い山頂部にカールやモレーンなどの氷河地形がいくつも残されています。これらの氷河が作られた時代がいつなのかを探る研究も盛んに行われています。日本列島は火山が多いため、火山灰があちこちに積もっています。氷河で作られたモレーンの上もしくは中に火山灰が見つかると氷河の形成時期を探る手掛かりとなります。火山灰は数日から長くても数年という短期間に広い範囲に堆積するため、年代を示すよい指標になります。飛騨山脈と木曽山脈では、2万年前前後と、それよりもさらに古い時期に氷河が拡大したとされています。山頂付近のカールよりもはるかに下まで延びるU字谷がより古い時代の氷河の跡とされました。地球規模の気候変動の歴史と立山カルデラの火山灰などから古いほうの拡大期は7万年前ではないかとされています。今から2万年前ごろは、過去12万年間で最も寒冷だった最終氷期の最寒冷期と考えられ酸素同位体ステージ2の時代と呼ばれています。酸素同位体ステージとは、もともとは深海底堆積物の化石の変化を基に番号がつけられたもので、奇数が温暖で偶数が寒冷な時期を表します。
氷期の川と地形形成
ここまでは山の上の方に氷河ができた話をしてきましたが、氷期には、山頂部の氷河だけではなく、そこから流れてきた川の流れも様々に影響を受けて現在とは異なっていました。氷期の日本列島は、気温や海水温が低かったため、おそらく台風や梅雨前線の影響が少なく、降水量も少なかったと考えられます。その結果、川の水量も少なかったので、川は大きな石を運ぶことができず、川の途中で砂礫が溜まってしまいます。そこで川の上流側の谷は、砂礫が谷を埋めた状態になっていたと考えられています。そのような証拠が、長野県の天竜川沿いの伊那谷で見られます。伊那谷には河岸段丘という川が作った階段状になった地形が発達しており、その断面に非常に厚く砂礫が溜まっている様子が見えます。これが氷期に川の運搬能力が低かったために砂礫が溜まった状態です。その後、温暖化によって雨の量が増え、川の流量も増えたことで運搬能力と削る力が増し、一気に現在の川底の位置まで削られて、過去の土砂の袋瀬駅断面が見えるようになりました。氷期は現在より海面が低かったため、海の近くの下流では、氷期の川が低い位置にあり、現在の川が高い位置にあることになります。上流に行くと氷期の川の方が上で現在の川の方が下のため途中でクロスすると考えられています。このような段丘地形は各地で見つかっています。これらの場所ではいずれも上流で氷期に大量の砂礫が谷を埋め、その後、流量が増えたことで深く削られたという同様の傾向が見られます。氷期は川の流量も働きも現在とだいぶ違っていたようです。
氷期の植生
氷期の日本アルプスでは、植物の分布も今とだいぶ違っていたことが指摘されています。現在でも高い山に登ると標高が高くなるにつれて高い気がある森林からお花畑が広がっているような風景に変わっていきます。高い木を含む森林がなくなる境界を森林限界と呼びます。標高が高いほど平均気温も低くなっていく為、それぞれの環境に合った植物が生育しているわけです。現在は森林限界の上には、ハイマツという背の低い松の仲間が分布しており、高山植物のお花畑と合わせて高山帯の特徴的な景観となっています。日本アルプス周辺では、標高の低いほうから秋になると葉が落ちる落葉広葉樹のブナの森、針葉樹林、高山帯と変化していきます。これは気温の変化によるため、標高が高くなるだけでなく、高緯度に行く場合も同様の植生の変化が見られます。現在の日本の植生分布を垂直標高に見ると北海道の高山では山頂部に高山帯があり、その下は主に針葉樹林が分布しています。北海道南端部の渡島半島以南では、本州と同様に落葉広葉樹林のブナの森が表れます。本州では落葉広葉樹林のさらに下に冬でも緑のままのつるつるした葉をつけるカシやシイなどからなる照葉樹林が分布します。植生分布を水平方向に見ると北海殿渡島から南には、落葉広葉樹のブナの森が広く分布しています。さらに四国や九州に行くと照葉樹林が広く分布します。これが氷期になると全体的に植物の分布が垂直方向に下がるとともに、水平方向にも南下します。北海道では針葉樹林や森林限界よりも寒冷な場所に形成される永久凍土の高原ツンドラなど高山帯のような景色がかなり広がっていただろうと考えられます。本州や四国では、現在よりも針葉樹林が広がっていたようです。たとえば、東京の武蔵野台地にある中野区江古田では、針葉樹の化石が大量に見つかりました。現在はこの地域には針葉樹は生えていないことから、氷期の関東平野には針葉樹の森があったということが分かります。一方照葉樹林は南九州のあたりにわずかにしか分布していなかったと考えられています。このような分布はレフュージア(避難場所)と呼ばれます。このように氷期と現在とでは、高山だけでなく垂直方向にも水平方向にも森の分布がだいぶ違っていたようです。
氷期の日本は今より乾燥していた
氷期の日本列島の風景で忘れてはならないことは、海面の高さが120メートルほど低かったということです。このため場所によっては海峡がすべて陸地になっていた可能性があります。現在は瀬戸内海は全部陸地になっていました。北海道とサハリンの間の宗谷海峡も水深50メートル程度と浅いため完全に陸地になっており、大陸から北海道まで陸続きになっていただろうと言われています。氷期には大陸の動物たちも北海道まで渡ってきたと考えられています。対馬海峡は一部海として残っていた可能性はありますが、幅が狭くなっていた為に日本海がほとんど閉じ込められ、湖のような状態になってしまいました。その結果、日本列島は今よりも乾燥していただろうと考えられています。なぜかというと現在は冬になるとシベリアから冷たい季節風が吹いて、日本海側に大量に雪を降らせます。これは日本海に対馬海流という暖流が流れ込み、これが蒸発して雲になって日本海側に雪を降らすためです。しかし、氷期には対馬海峡が挟まっていて、日本海に暖流が流れ込めませんでした。すると日本海側の蒸発量は少なくなり、降雪量も少なく全体的に日本列島が乾燥してしまうというわけです。このように、海岸線が変わることで列島全体の気候が今と違っていたと考えられるのです。