- すべてのものに宿る精霊
- 再生と名前の付け方
- 地域による命名の違い
- 命名と同名者関係
すべてのものに宿る精霊
エスキモーの世界は連続する世界の通過点
エスキモーの世界観を支える本質的な統一性となる再生は、西洋の世界観の根底にある生と死、夢と現、始まりと終わりのような、ものごとの対立的な見方とは異なります。
西洋における時間、空間、存在の際限は、エスキモーにとっては、はてしない連続上の通過点であり、一つの融合した統一体の色々な姿の一つにすぎないものです。
連続はエスキモーの世界の現実であり、可能と不可能も区別されません。状況次第で、なにごとも可能になりえるとエスキモーは考えています。
太陽が昇らない冬や太陽が沈まない白夜を過ごす彼らにとっては、昼と夜のような対立関係よりも連続する時間の中の通過点と考える方が自然であったのではないでしょうか?
すべてのものに宿る精霊
エスキモーの世界ではすべてに霊、つまり各々のエネルギーの源となるものがあり、その霊により各々のものに滞在的な行動力と性質が与えられます。
山の斜面に露出する岩は本来的に命のないものではなく、滞在的な生命力にあふれているとされます。
例えば、とくに力のある岩の近くをうっかり通り過ぎた人がその岩のために命を奪われたという話もあります。
つまり、その体に宿る生命力のため、岩はただの岩ではありません。そのようなこともあって、私たちの目には動きのない地形があるだけですが、エスキモーが風景を見ると複雑に関係しあい、時には恐怖を抱かせる超自然的な現象が見えているのです。
私たちにとっては、生命のない極北の地形も、彼らにとっては、力強く活動する滞在的な生命が宿っていると彼らは考えるのです。
命あるすべてのものには、霊と形質と性質という特質のほかに、気とでもいう息吹があります。
命の源泉は霊にありますが、気によって動物や人間が「大気の精」との関わりあいをもつ特殊な力が与えられているとされ、それによって植物や石より人間と動物は精力が強いとされています。
霊と形質と性質と気の4つの特質のほかに、人間にしかない名前という特質があります。
エスキモーの解釈では、霊と形質と性質と気により人間に付与される力のほかに、名前も独自の力を持っているとされます。
だらか、五つの力を持ち合わせる人間は、アザラシやカリブー、岩よりも強力な力を保持していることになります。
エスキモーにとって名前は、ただの呼称ではなく、神聖なものなのです。
再生と名前の付け方
赤ん坊は、名前をつけられるまでは人間になっていないとされているので、生まれたばかりの赤ん坊に名前をつけることは重要なことです。
赤ん坊は独自性のある個人ではなく、死んだ人の再生であると考えられているために、死んだ人の名前を新生児につけられなければなりません。
一人の人間につけられる名前の数は決まっておらず、複数の名前を持つことも珍しくありません。ほとんどの人は死ぬまでにいくつもの名前を持つようになります。
飢饉などが原因で人口が減ってしまうとその社会にある名前の数が人の数より多くなってしまうこともありました。
逆に、人口が増加する社会では、次々産まれてくる赤ん坊につける名前を新たに創らなければなりませんでした。
新しい名前を創るためには、シャーマンの協力が必要でした。
また、名前は特別な力を有しているため、普段は呼ぶことができず、親族名称やあだ名などで呼び合うことが多かったです。
地域による命名の違い
南西アラスカ
南西アラスカでは、命名の時に名付けの専門家とシャーマンが関わり、儀礼も催されました。
そして、本名となる名前がつけられると、その名前を口にすることは禁じられました。
なぜなら、本名は日常生活で使えない神聖なものであると考えられたからです。
このため、人を呼ぶとき、あだ名や遠回しな呼称を使う必要がありました。
チュクチ半島
チュクチ半島のエスキモーたちは、赤ん坊が生まれる前から夢の分析や自然現象を解釈して、誰の魂がその赤ん坊にとりつくかを確かめようとしました。
その赤ん坊に誰が生まれ変わろうとしているかを確かめることができなかった場合、生まれた赤ん坊の顔立ちなどを吟味して、以前に死んだ人に似ているところを見出そうとしました。
命名した後に、赤ん坊が死亡したら、間違った名前がつけられたと考えました。赤ん坊が病気にかかると、本名のほかにも名前が必要だと考え、健康が回復するまでその赤ん坊に次々と新しい名前がつけられました。
東グリーンランド
東グリーンランドでは、赤ん坊にいくつかの名前が同時につけられました。死んだ人の名前がその中に含まれていましたが、多くはランプや石などのような一般名詞でした。
ある人が死んだあと、その人の名前を口にしてはならず、もし口にしたならば、死者の霊が化けて出ると信じられ、その名前はタブーになりました。
死者の名前が人名以外に何の意味もなければ問題なかったのですが、その名前がもの名称であった場合、その名称でそのものを指して言ってはいけなくなりました。そのため、新しい名称を作らなければなりませんでした。
産まれてくる赤ん坊にタブーとされた名前をつけると、その名前のタブーはとかれますが、タブーのために新しい名称をつけられたものは元の名称に戻らず、新しい名称で呼び続けられました。
命名と同名者関係
先ほどまでにも述べましたが、エスキモーは名前には霊魂が宿っている、もしくは名前は霊魂そのものであると信じられていました。
名前の霊魂は、霊と形質と性質と気をもち、名前がつけられた子供にその名前の属性が体現されると考えられていました。
また、エスキモーの名前は性別によって区別されませんでしたが、それを持っていた人の性を受け継ぐので、祖母の名前を受けついだ男子は、女性とみなされ、ある時期まで女の子として育てられることもありました。
名前に特別な力があると考えたエスキモーですので、同じ名前を持つ人どうしは特別な関係であり、「サウニック」(骨の意味)とお互いを呼び合いました。
同じ人物に由来する名前を持っているということは、同じ霊魂を有することになり、象徴的に同一の人物とみなされました。
名前を共有する同名者関係は、親族名称の使用に影響を与えます。
例えば、自分の父と同じ名前を持つ人に対して「お父さん」と呼んだり、自分の妹と同じ名前の人を「妹」と呼ぶことがありました。
同名者が異なる世代の場合には、年長者は年下の同名者をかわいがり、ことあるごとにプレゼントをしました。
また、年少者の家族が食べ物がないなど困っている時には、年長の同名者が助けることがあります。その逆に、年長者が困っている時には、年少者や年少者の家族が年長者を助けることもありました。
同名者どうしが同世代で仲が良い場合には、お互いに助け合ったり、一緒に狩猟や漁労に行ったりします。
この同名者関係は、日常的には社交上の親しい人間関係として機能していますが、一方が経済的・社会的な困難に陥った場合には、親族関係と同様に援助機能を果たすこともあります。
今回はエスキモーの精神世界、特に名前について紹介しました。
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